祭りの準備
〇バザーまでもう一週間をきる。
まあこの期間は言わば「祭りの準備」であろう。
で「祭りの準備」であれば「高知」で「ATG」で「原田芳雄」なのだ。
国会で青島幸男が決めたのだ。
今は変なシンゾーとかいうやつが決めてるらしいケド。
青島さんだったらいいのにな。
あ、脱線した。と言うか脱線したうえに脱線しているのでよくわからんが。
要は祭りの準備と言えば原田芳雄であるという事が言いたかったのだ。
田舎から出てきたすべての男たちはトシちゃんこと、原田芳雄に見送られて出てきたのだ。たぶんそれは街のあちこちに地蔵のように、神のように居たのだと思う。。。。。そしてみんなの背中を温かく応援してくれていたのだと思う。
そうして時代が続いていくことを言葉でなく知り、世代をつないでいくのだと思う。そしてそれは次のバトンにつなげられるべきなのだろう。
今度正月帰ったら高校の頃毎日通っていたゲーセンかつ金魚屋の山金の兄ちゃんと飲みたいな。10年以上昔の大水で建物は流されてしまったけど。
どうしているんだろうな。
〇最近、障害者運動の世代交代の話をよく聞くようになったような気がする。
それこそバトンの話だ。
それを考えるとき、少し立ち止まってしまうのが最近の常だ。
私たちが"ココ"に携わるのは伝統文化の保存よろしく、バトンを繋ぐ為ではない。
その時その時にぶつかる問題を解決しようとその度ごと、その時代ごとにもがくだけなのだろうと思う。その結果として、いわゆる"イズム"的なものが継承されるかどうかという話なのだと思う。
"イズム"は想いであり、考え方であり、腹のくくり方だと思う。
継ぐも継がぬもない。好きか嫌いかといった選択肢の方がわかりやすいと思う。
それが"心地よかった"り、"格好よく見え"て、ギリギリつながっていくのだと思う。結果論として。
「 祭りの準備」で、都会へ向かう主人公を原田芳雄扮するトシちゃんが万歳で見送るのは自分の夢をついでくれるからではない。
主人公は自分の夢を信じて旅立っていく。
そしてそれをトシちゃんが応援する。
そしてそれは周り回って。
警察に追われる身でありながら大声でホームを走りバンザイを繰り返すトシちゃんは無垢だ。どんなにいま薄汚れていようと。だからこそトシちゃんが押した誰かの背中は、周り回って自分の背中を支える手になる日が来るに違いない。
トシちゃんはそんなこと思いはしないだろうが、きっとそうなるのだ。
だからこそトシちゃんのバンザイでの見送りはいつかの僕やいつかの誰かにも向けられているのだと思う。
だからあのシーンはどこか懐かしいのだろう。
わらじバザーはまだギリギリ世代を超えて41年間に渡り、私たちの日ごろの活動の根っこ、方法論としてあるのだと思う。
まず見返りをそろばん弾いて考えている商売ではなく、格好つけて言ってしまえば私たちはこれを通してたぶん街そのものや自分たちも含む人たちを応援しているのだと思う。
トシちゃんのように。