物は壊れる、人は去る 三つ数えて、眼をつぶれ そういう訳さ ママン(大丈夫、俺は泣かないんだぜw)
やじるしがある。
色々な生き方、色々な進み方、考え方。
色々な人生という形のやじるし。
個人であったり、家族の総意的だったり、会社の方針的なものもあるかもしれない。
広く見る。
例えば町から市のレベルへ。
市から県のレベルへ。
そうした時、もちろんやじるしの数は増す。
同じ流れのやじるしは繋がっていくかもしれない。
似たような考え方や視点、方向性を同じくしてやじるしがまとまっていくこと。
それは友達になるという事かも知れない。
それは自分に合った仕事場に巡り合うという事かも知れない。
さっきやじるしが個人や家族だけでなく会社などの集合体であるかもしれないと書いた。
例えばこうした色々な色や形のやじるしが存在する中で、社会の中にそう大きくはないけれど一つの流れがあったと考えてみる。
それが「わらじの会」、であったとして。
全てが全く同じ方向に進んでいくのではないと思う。
例えば「わらじの会」という大きなやじるしの流れと出会い、方向が一緒な時に「わらじ」と共にその個人、集団は時を重ねていくのかもしれないと考える。
だからもちろんその流れと自分他の流れのベクトルがズレれば大きなわらじの流れから抜けたり、流れの中心から外れていくようなことはあるのだと思う。
また同床異夢であってよい、と考える「わらじ」においてはかろうじてつながりつつも違う方向に流れていくやじるしなどもそのバランスの中で結構存在したりもするのだとも思う。
わらじも、共に流れていく個人や家族などの集団としてのやじるしもお互いにその中身、今現在のやじるしの中身を知ることで関係は深くなる。そうして大きな流れとしてのやじるしにギッチリ食い込んだり外れたりしながら、時を重ねていく。
また同時に、大きな流れとしての「わらじ」というやじるしの向きや方向や流れ方は小さなやじるしの集合体でできている以上方向などをを変えていくこともできるだろう。というか、小さなやじるしの群れ、スイミーのような群体でできているわらじはそうして流れや行き先を調整してきたのだろうとも思う。
前回の人口ピラミッドと絡めて考えると、総数が多ければ寄り添うやじるしも結果多かっただろう。また現代は大きなやじるしとしての「わらじ」などくらいしかなかった頃と違い、サービスの供給者などとしても入って来るやじるし(事業者などといった)はビックリするくらいに増えたとも思う。
これからの流れとしてどういうことになるのだろうとこんな矢印を前にしたりしながら、介助者募集など合わせてうんうんと考える秋深い昨今である。
あらら。まったく笑えるところがないよ。
びっくりだねww
まあたまにはこんなまじめな話。
さて。どちらへむかいましょか